徒然文筆業

前田です。 このブログでは、主にブログ主が今まで書いたものの改稿加筆を行った小説を掲載します。従って初出は他のところにあったりしますが、いちいち原文を載せたりしないので悪しからず。 オブラートに包まれた忌憚の無い意見を希望します。

休息地

休息地

 

 蛇口から這い出してきた水は青色のゴムホースの内側を駆け抜けて、世界との対面を果たした。目の前には青空に高くそびえ立つ雲、風に身をゆらす木々、整えられた大きな竹製の道路が景色を埋めていた。目新しい情景に、手に持った荷物を引きづりながら走った。走って走って、いくつもの荷物を振り落としてから、足を滑らせてしまった。道からはじき出された、水滴は地面に落ちて動きを止めてしまう。動こうにも動けない、不自由な身を恥じて水滴は考えることを止めてしまっていた。

 

 啓人は竹樋から水が撥ねて地面にできた水たまりを見ていた。食欲はないが、どこに行こうとも思えなくてその場にしゃがみ込んでいた。

「おう、啓ちゃん。そうめん食べないのかい。美味いよ」

 叔父の隆文は陽気に話しかけてくる。頭に巻いた白い鉢巻は汗を吸い込んで色が褪せていた。

 納涼会は盛況だった。町中から人が集まり、子どもは滅多に見ない流しそうめんに興奮気味になって走り回っている。

「大学はどうだい? 可愛い彼女とかできたんだろ」

「そんなことないよ。別に普通」

「本当かい? 啓ちゃんハンサムだから、さぞモテるだろうに。できたらちゃんと連れてくるんだぞ!」

 叔父は背すじがはねるような大声で笑いながらその場を去っていった。若手の町内会長はお礼回りで忙しいらしい。無意識のうちに溜息を吐いた啓人は人垣の傍から離れるように、屋敷の縁側に座った。

「おや、まるで疲れ切ったサラリーマンみたいよ。昔のパパにそっくり」

「人が多いの、苦手なんだよ」

 どうやら先客がいたらしい。母は少し離れたところに座っていた。腰を少し浮かせて移動し、啓人の隣に座った。久しぶりに見た母親は、少し老け込んだようには見えた。小学校の仕事があったためか簡単に化粧を施していたが、皺や隈もお構いなしだった。

「仕方ないでしょ。どんどん子供も減ってるんだから。楽しい催しごとで少しでも地元につなぎとめないと」

「そんなことしても無駄だよ」

「アンタも、出て行っちゃったもんね」

 母の声も、変わっていないようで少し変わっていた。優しくて、でもどこか乾いている。何かに諦めてしまったように、瑞々しさを失ってしまっているのだ。啓人は手に持った透明な椀を口に寄せ、つゆを少し啜った。辛くて気分が悪くなりそうだった。

「別に地元が嫌なわけじゃない。みんな出ていくから、行くだけ」

「都会に居場所はあるのかね」

「作ろうと思えば、どこにでも作れる」

 啓人がそう答えると、母は黙り込んでしまった。

 夜が深まり、花火の音と匂いが鮮烈な色と共に感じられた。小さい男の子が花火を振り回して女の子たちを追いかけまわしている。これらも全て昔の情景だ。

「せんせい見て見て、大きい花火!」

 女の子は極端に先の膨らんだ線香花火を差し出して、耳を貫くような大声で言った。火の玉を合体させたようだった。受け取る暇もなく火の玉は地面に落ちてしまった。女の子は少しの間固まってしまったように動きを止めていたが、やがて大粒の涙を目の端に溜め始めた。泣き出した女の子の頭をそっと撫で、新しい花火を与える母親はやはり教師なのであろう、疲れた様子は全く見せず、目には力があった。女の子は花火を受け取ると、鼻をすすりながら袖で目元を拭き、駆け出して行った。その様子を見て、母親は再び力を失くしたようにその場に座り込む。

「……これでも、いつかいなくなってしまうというの」

 啓人は何も言わなかった。確証の無いことを言うのは憚られたし、何よりこれ以上母親を追い詰めようとは思えなかった。

 

翌朝、じりじりと肌を焼く日差しの中、竹樋を片付ける啓人は叔父の背中を見た。昨日のあれは空元気だったのだろうか。竹を持ちながら静止し、微動だにしない。身長が一八〇センチあるとは思えないくらい小さな背中は小さく上下し、確かな生命の息吹を感じさせる。ただ、それだけだった。

 昨日覗いていた水たまりは既に無く、乾いた地面だけが残っていた。行き場を失くした水滴はゆっくり空気に溶け込んで空へ登っていく。そんな情景を啓人は想像していた。

 蛇口にホースをつなぎ、水を流すと、冷たい感覚がホース越しからも伝わってきた。先から飛び出す水は渇いた地面を染めていく。

 まず啓人は叔父の頭に水をかけた。叔父は驚いたように啓人を見たが、やがて薄く笑みを浮かべると竹樋を運び出していった。

 庭中に水を撒くが、しばらくすると乾いてしまう。負けじと水を撒く。やがて庭中を水浸しにして母親に怒られたところで、啓人は水を撒くのをやめた。

 広い庭は少し涼しくなったようだった。濡れた土は腐ったような臭いがしたがどこか懐かしさを感じさせる。ふと思い立ってスマートフォンを取り出す。同窓会をしようと思った。この広さならちょうどいい。

 気づくと地面は再び乾ききっていた。雲一つなく広がる空はこの世界全てを繋げている。どこで何をしていても、本当の居場所は変わらないのだと空気中に散らばった水滴が教えてくれる。啓人は電話をかけつつ、屋敷の縁側に座った。

夏が終わったら、再び都会に戻らなければならない。しかし、夏の暑さはまだまだ続きそうだった。

 

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 ちょっと前に書いたものです。都合上このサイズになってしまいましたが、余力があるときに同じ内容で長いもの(最低でも1万5千字くらい)を書こうかな、と思ってます。その時はこれも消します。また、そろそろ長いものを小出しであげていこうと思ってます。連載はWebの醍醐味ですしね。

2016年宇宙の旅

2016年空の旅

 

 愛する人がいた。

「海の色を映した真っ青な空、真綿のようにぼんやりと漂う雲、夜空を彩る星の海。ああ、手の届かないものはつまらないわ。簡単に手が届く、あなたが好きよ」そう言ってくれた彼女は羽根のように軽い紙きれ一つ残して私の前から姿を消した。一日中彼女のために汗水たらして働いたその帰り、僕たちの愛の巣がご近所中の屑ゴミを集積したかのような異様な景観に成り代わっている事実に驚愕した。

片づけられない女という印象だった。人の家を荒らすだけ荒らし、彼女の持ち物は何一つ残っていない。そこに自分がいたという痕跡だけ刻印していった彼女に、その小さくて丸っこい両肩に未練の重圧がのしかかって、引力に絡めとられた林檎のように地の底に落ちて行ってしまえと、顔を赤くしながら僕は思った。

 

彼女が僕のもとから巣立って一週間、世間は新種の鳥についての話題でもちきりだった。なんでも成層圏まで飛ぶらしい。鳥の限界高度を急激に持ち上げたその鳥に生命の神秘と可能性を感じ、未来に生きる人々は心をときめかせていた。

「鳥を見にいかない?」

 七海はこともなげにそう言った。リンゴジュースを音を立てて吸い尽くし、黄色の吐息を漏らしている。

「どういうこと?」

 あまりに情報に乏しくて、言葉の断片が拾えない。七海は大学のゼミの後輩だが、その人懐っこく誰にでも馴れ馴れしい性格で年齢問わず男子の人気を獲得している。誰といても『彼女風』な行動をとるが故に、言葉が足りないことがしばしばあった。

 ん、と七海はストローを咥えたまま一枚のチラシを差し出した。

「上本先輩、鳥が好きじゃない? 件の鳥、興味あるでしょ」

 手渡されたチラシには、『発見! 成層圏を飛ぶ鳥』という大見出しと日時・費用その他がカラフルなデザインとともに記されている。旅行会社のプランのようだった。僕は溜息を吐いて首を横に振る。

「どうして? 私、先輩といっしょに行きたいわ。まだ一度も先輩と一緒に旅行してないんだし」

 大きな瞳が懇願するように僕を見据える。七海にはその気はないのだろう。しかし七海のまぶたが、虹彩が、瞳孔が、僕の全てを絡めとって網膜に焼き付けようともがいている、そう見えた。七海は彼女になり得ない。彼女の瞳はもっと刺激的で蠱惑的だった。僕の全存在が彼女を志向し、彼女もまた僕をそばに置いたのだ。

 翼の羽ばたきが脳裏に響いた。僕は腰をゆっくりと持ち上げ、席を立った。

「生涯、僕だけを愛してくれるのなら、一緒に行ってもいいよ」

 返答はなかった。呆れられたのかもしれない。愛想を尽かされても仕方がないことなのだ。

 『元』彼女との愛の巣への帰り道、街灯の明かりでチラシが照らされた。都会の空は真っ暗で、上弦の月だけが空に浮かんでいる。届くはずもないのに伸ばした手は空を切り、虚空を掴んだ。この腕が翼であってもあの月には届くはずもない。でも地面に根を付けてくすぶっているよりは、ずっと良い気がした。

 

 大きな音と共に慣性の力が全身にかかり、巨大な鉄の塊が飛翔する。息の止まるような重圧に、鳥が初めて飛翔に成功した太古の時代へと思いを馳せた。アテンションプリーズ。機内音声は規定の高度に達するまでは立ち上がることを許さない。高度は一気に上がり、広大な雲海をかき分けて人類の翼は飛ぶ。

 わっと歓声が起こる。鳥が飛んでいる。鳥の群れは大海原を泳ぐように鮮やかに飛んでみせた。鳴り響くシャッター音に思考が研ぎ澄まされて、心が静まる。年季の入ったデジタルカメラは、鮮明かつ克明に時間を切り取った。飛行機は飛び、鳥たちは滑空する。風の流れに身を任せて、さらに上へと。これより上には飛行機は飛べない。鳥たちの独壇場だ。

 手荷物用に持ち込んだ小さなショルダーバッグにデジカメをしまい、チラシとともに小さく折りたたんだ紙切れを取り出す。そこには簡潔に『もっと上を目指すことにしました。さようなら』と汚い字で書かれていた。彼女は手の届かないものへの憧れに負けてしまったのだ。例え手が届かないとしても求めないではいられない。僕は遠くへ行ってしまった彼女に思いを募らせながら目を閉じた。瞼の裏には、翼を生やした彼女の姿がはっきりと映し出されていた。

 

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今年度初書きしたものです。せっかくなのであげました。少し修正しましたがおおむね初稿と変わりません。