徒然文筆業

前田です。 このブログでは、主にブログ主が今まで書いたものの改稿加筆を行った小説を掲載します。従って初出は他のところにあったりしますが、いちいち原文を載せたりしないので悪しからず。 オブラートに包まれた忌憚の無い意見を希望します。

2016年宇宙の旅

2016年空の旅

 

 愛する人がいた。

「海の色を映した真っ青な空、真綿のようにぼんやりと漂う雲、夜空を彩る星の海。ああ、手の届かないものはつまらないわ。簡単に手が届く、あなたが好きよ」そう言ってくれた彼女は羽根のように軽い紙きれ一つ残して私の前から姿を消した。一日中彼女のために汗水たらして働いたその帰り、僕たちの愛の巣がご近所中の屑ゴミを集積したかのような異様な景観に成り代わっている事実に驚愕した。

片づけられない女という印象だった。人の家を荒らすだけ荒らし、彼女の持ち物は何一つ残っていない。そこに自分がいたという痕跡だけ刻印していった彼女に、その小さくて丸っこい両肩に未練の重圧がのしかかって、引力に絡めとられた林檎のように地の底に落ちて行ってしまえと、顔を赤くしながら僕は思った。

 

彼女が僕のもとから巣立って一週間、世間は新種の鳥についての話題でもちきりだった。なんでも成層圏まで飛ぶらしい。鳥の限界高度を急激に持ち上げたその鳥に生命の神秘と可能性を感じ、未来に生きる人々は心をときめかせていた。

「鳥を見にいかない?」

 七海はこともなげにそう言った。リンゴジュースを音を立てて吸い尽くし、黄色の吐息を漏らしている。

「どういうこと?」

 あまりに情報に乏しくて、言葉の断片が拾えない。七海は大学のゼミの後輩だが、その人懐っこく誰にでも馴れ馴れしい性格で年齢問わず男子の人気を獲得している。誰といても『彼女風』な行動をとるが故に、言葉が足りないことがしばしばあった。

 ん、と七海はストローを咥えたまま一枚のチラシを差し出した。

「上本先輩、鳥が好きじゃない? 件の鳥、興味あるでしょ」

 手渡されたチラシには、『発見! 成層圏を飛ぶ鳥』という大見出しと日時・費用その他がカラフルなデザインとともに記されている。旅行会社のプランのようだった。僕は溜息を吐いて首を横に振る。

「どうして? 私、先輩といっしょに行きたいわ。まだ一度も先輩と一緒に旅行してないんだし」

 大きな瞳が懇願するように僕を見据える。七海にはその気はないのだろう。しかし七海のまぶたが、虹彩が、瞳孔が、僕の全てを絡めとって網膜に焼き付けようともがいている、そう見えた。七海は彼女になり得ない。彼女の瞳はもっと刺激的で蠱惑的だった。僕の全存在が彼女を志向し、彼女もまた僕をそばに置いたのだ。

 翼の羽ばたきが脳裏に響いた。僕は腰をゆっくりと持ち上げ、席を立った。

「生涯、僕だけを愛してくれるのなら、一緒に行ってもいいよ」

 返答はなかった。呆れられたのかもしれない。愛想を尽かされても仕方がないことなのだ。

 『元』彼女との愛の巣への帰り道、街灯の明かりでチラシが照らされた。都会の空は真っ暗で、上弦の月だけが空に浮かんでいる。届くはずもないのに伸ばした手は空を切り、虚空を掴んだ。この腕が翼であってもあの月には届くはずもない。でも地面に根を付けてくすぶっているよりは、ずっと良い気がした。

 

 大きな音と共に慣性の力が全身にかかり、巨大な鉄の塊が飛翔する。息の止まるような重圧に、鳥が初めて飛翔に成功した太古の時代へと思いを馳せた。アテンションプリーズ。機内音声は規定の高度に達するまでは立ち上がることを許さない。高度は一気に上がり、広大な雲海をかき分けて人類の翼は飛ぶ。

 わっと歓声が起こる。鳥が飛んでいる。鳥の群れは大海原を泳ぐように鮮やかに飛んでみせた。鳴り響くシャッター音に思考が研ぎ澄まされて、心が静まる。年季の入ったデジタルカメラは、鮮明かつ克明に時間を切り取った。飛行機は飛び、鳥たちは滑空する。風の流れに身を任せて、さらに上へと。これより上には飛行機は飛べない。鳥たちの独壇場だ。

 手荷物用に持ち込んだ小さなショルダーバッグにデジカメをしまい、チラシとともに小さく折りたたんだ紙切れを取り出す。そこには簡潔に『もっと上を目指すことにしました。さようなら』と汚い字で書かれていた。彼女は手の届かないものへの憧れに負けてしまったのだ。例え手が届かないとしても求めないではいられない。僕は遠くへ行ってしまった彼女に思いを募らせながら目を閉じた。瞼の裏には、翼を生やした彼女の姿がはっきりと映し出されていた。

 

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今年度初書きしたものです。せっかくなのであげました。少し修正しましたがおおむね初稿と変わりません。